三柱神社について

 

御祭神について

三柱神社は、「西国一の強者」と称された百戦錬磨の武将 初代柳川藩主 立花宗茂公、岳父 戸次道雪公、宗茂室 誾千代姫の三神を祀ったことから、三柱神社と称します。

立花家は江戸時代を通じて柳川の地を治めていた大名家であり、中でも初代藩主の宗茂公は、あの豊臣秀吉をして「九州の一物」と言わしめた大名です。

宗茂公は、天下分け目の関ヶ原の戦いで西軍についたことから領地を追われ、一度は柳川を去ることとなりましたが、その後に功績が認められ元いた領地に戻ることができました。元いた領地に戻ることができたのは、数々の大名のなかで宗茂公ただひとりだったことから、「復活の神様」として必勝・成就・復活の社といったご利益を持ち、多くの方に崇敬されています。


歴史

 その歴史は古く、天明3年(1783年)、七代藩主 立花鑑通公が柳川城の三の丸 長久寺境内に社を建立し、道雪公を奉祀したことが起源となります。文政3年(1820年)日吉神社近くに遷座され、「唯一宮」と称したのち、「梅岳社」に合祀した時から「三柱宮」と改称されました。


現在の場所に移ったのは、文政8年(1825年)のこと。九代藩主 立花鑑賢公が藩祖をお祀りするには小さいのではないかと考え、ご先祖様のために現在の地を境内として社殿の建立を計画され、翌年の旧八月十六日に御神霊が遷座されました。これより、現在の三柱神社となりました。

 

 

柳川藩をあげて建てられた三柱神社

建てられた神社の拝殿、楼門、廻廊等の屋根は全て赤銅で葺き、楼門は特に精巧な作りになっており、藩をあげての建設工事だったことがわかります。

前述の資料によりますと、「この新しいお宮のために、大工が日光東照宮・厳島神社へ社殿の建築様式を視察しに行き、その構造のいいところを取り合わせて、創建当時の形に作った」ということが記されています。

実際に、火災に見舞われる前の三柱神社は回廊があり、本殿があるところは、厳島神社を参考に、楼門と唐門は日光東照宮を参考にされていました。

 

 
立花家について

立花宗茂公が柳川城主となったのは、今からおよそ400年前のことです。それ以来、立花家は柳川と共に歴史を紡いでまいりました。現在、三柱神社は立花家18代にあたる立花誠太郎が宮司をつとめています。


そのほかにも、藩主の別邸として誕生し、江戸時代から歴史を紡ぐ柳川藩主立花邸 御花、明治の頃の伯爵家農場の歴史を受け継ぐみかん農園「橘香園」等、立花家の末裔が筆頭となり様々な方の力を借りて、守ってきました。

立花家は、廃藩置県や華族制度の廃止等時代の波に揉まれながらも、「地元に根差し続ける」というスタイルをとってきました。そんな歴史があるからこそ、現在も立花家は柳川に根を張り、先祖と子孫との対話を続けながら、歴史文化を未来に向けて繋いでいます。

 

当宮の宮司 立花 誠太郎


悠久と続く日本文化の中で、今、私共の神社が求められていることは、地元の皆様の拠り所であることは元より、信仰の発信、柳川の文化を次世代に繋ぐ拠点となることだと考えております。

三柱神社は、江戸時代より柳川の街へ魔を寄せ付けない役割を担って参りました。
観光地となった今、三柱神社は柳川の玄関口として、多くのお客様をお迎えする役割を果たして参りたいと思っております。

私は、柳川を観光地にするためにその生涯をかけて尽力した祖父立花家16代当主の和雄の想いを継ぎ、三柱神社の宮司となりました。
「心のよりどころ」であるこの大切な本殿を本来の姿へと復元し、神社の使命として誠心誠意取り組んでまいります。